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そのときクイズはひとつの死を迎える。

よほど特別なことがない限り、プロ野球チームとそこらへんの草野球チームが対戦することはない。

プロの将棋棋士がそこらへんのオッサンと平手で戦うことはない。

TBS系「オールスター感謝祭」の赤坂5丁目ミニマラソンはハンデ有りだ。

競技クイズが普通の競技と異なる点は、一部例外を除いて、どんなに実力に差があっても同じ土俵で対戦することだ。
クイズのオープン大会に批判は付き物だが、元を突き詰めて考えればだいたいそこに行き着く。

ガチでクイズをやってる人と、軽い趣味の一つとして気楽にクイズに嗜んでいる人、クイズ初心者が区別なしに対戦するのは無理があるのだ。

では、実力別にすればよいのだろうか。
実はそれにも問題はある。何を以て実力とするかの問題だ。

ある一つの大会で活躍したからといって、違う傾向でも強いとは限らない。
競技クイズは、ルールは明快でも、内容の基準は明確ではない。

ではクイズを、野球やサッカー、囲碁将棋、競技かるたのように、ルール等を整理してカッチリしたものにしたらどうなるのだろうか。
もしそれが完了したならば、それは本来のクイズからはかけ離れたものになるだろう。
既にそうではあるが、博識な人を称賛するような牧歌的なものではなくなり、よく言われる「競技かるた」的なゲームと化するだろう。

様々な自分基準を持ち、実力・得意分野も千差万別な人々が一堂に会するクイズ界が、そのコミュニティを保てているのは、クイズ特有のユルさの賜物である。

もしクイズが「競技」として整理・体系化されたならば、昔の意味でのクイズはひとつの死を迎える。

余談。
そもそもクイズは勝負事でなくてもいいのではないか。
誰かが作った問題を、誰かが答える、ただそれだけ、というのも当然「クイズ」だ。
勿論、たくさん正解した人がエラい、というのも否定すべきではない。

そもそもクイズ番組に笑いはいらない。

ヤフーニュースで次の記事を見かけた。

<素人と玄人の「笑い」の違い>なぜ最近のクイズ番組には「素人」が出なくなったのか?

今の地上波では考えられないが、かつて、テレビのゴールデンタイムのクイズ番組に素人(←イヤな言い方だから、以下、主に「一般人」と書きます)が出まくっていた時代があった。(海外なら今でも視聴者参加型のクイズ番組が主流だろうけど)

『アップダウンクイズ』や『クイズグランプリ』はもとより、『世界一周双六ゲーム』みたいな番組までもが視聴者参加型のクイズ番組だったのだ。
『クイズ 100人に聞きました』なんか、全員一般人の家族が出場していたのだ。

今回取り上げた記事で気になったのは、笑えないクイズ番組を面白くないと捉えていることだ。
クイズ番組って、笑いが必要なものだったのか? 大喜利と勘違いしてるのか。

クイズは、正解しようと思って答えるのが原則だ。
わからない問題でも、なんとか正解したいと思って答える。
珍答で笑いが起きるのはあくまでオマケだ。

《記事から引用》

「良い素人」の第一条件は「自分を面白いとは思っていない人」である。自分から、これ面白いでしょ? と「ネタを言いに来る」つまり出しゃばってくる素人は出演することがない。
こうして選んだ素人は時として爆発的な笑いを生む。

笑える回答をしてくれる素人が欲しい。でも、「出しゃばってくる素人」は要らない。素人は余計な計算をするなってことだね。天然ボケ大歓迎。それ以外の一般人はテレビに出させてやんない。一般視聴者も随分見下されたものだ。

笑いを狙っていないのに面白い、笑いを狙っていないからこそ面白い、というのをたまに聞くが、真面目に答えている人を嗤うのは失礼ではないのか。
芸能人はともかく、一般人は自分の珍答を嗤われたら、いい気はしないだろう。
まあ、「ご長寿早押しクイズ」の出場者は気軽に回答してるだろうけど。(※でも昔、どこかの記事で、「ご長寿早押しクイズ」に出場したことがある人が「編集で、変な答えを言っているところだけ放送された」と怒ってた、というのを読んだことがある)

クイズ番組に限らず日本の地上波の番組は、笑いや盛り上がりを重視しすぎる。とにかくうるさい。

素人が出なくなったのには様々な理由がある。
一つは素人が出ても面白くないからである。

この「面白くない」は、「笑えない」とするのがより正確だ。

もう一つ大きな理由は、経済的合理性である。テレビに出演可能なレベルの素人を見つけるには、膨大な人と費用と手間がかかる。

笑いなんぞ求めるから、「膨大な人と費用と手間がかかる」のだ。

経済的合理性を考慮するんだったら、むしろ一般人をテレビに出した方がいいよ。
テレビに出られるんなら、お金を払ってでも出たいと思っている一般人は山ほどいる。

えっ、それじゃあ、視聴率が取れないって?
芸人偏重の今だって、たいして視聴率取れてないじゃん。

笑えない番組でも面白い場合があることにそろそろ気付こう。

素人いじりなんて大きなお世話。へりくだれとまでは言わないから、普通に接してくれ。

《余談》
往年の『アメリカ横断ウルトラクイズ』、今の地上波では絶対にあんな内容にはできないね。面接も無しでマルバツで選別した一般人をそのまま出してるんだもん。それから、ジャンケン三本勝負。今なら考えられないね。だって、ジャンケンだと、テレビ向きのキャラの人が負けて、テレビ的にはショボい人(失礼)が勝つことだってあるんだから。というわけで、現状ではウルトラクイズの復活はありません。

必ずしも問題文に最も有名な事実を盛り込む必要はない

早押しクイズで人物名が答えの問題を出して、スルーになったとする。

そして正解を発表した時、「えーっ! それだったら知ってた」という反応がある場合がある。

問題文にその人物に関する重要事項が欠けていたということなのだ。

では、早押しクイズでは、問題文中にその答えに関する最も有名な、あるいは重要な事柄を入れておかなければいけないのであろうか。

必ずしもそうではない。

クイズは問題文の情報から正解を導き出すゲームだ。

問題文に盛り込んだ内容が正解を一つに限定するものであれば、それでいい。

問題文を答えの単語の要約にする必要はない。

結論を言おう。
問題文に、答えについての最重要事項を盛り込まなければいけない気になってしまうのは、「長文」クイズが定着したことによる錯覚なのだ。

人物名が答えの「短文」クイズを見てみよう。
この人物ならこれは外せないという内容を全部盛り込もうとうすると、おかしくなることがすぐにわかるはず。そもそも無理な場合も多い。

長文問題はどのようにして誕生したか

「長文」クイズの黎明期の状況をリアルタイムで体験している世代は、もう「クイズ界」ではかなり少なくなっているだろう。
その時代を肌で知っているクイズ屋でも、長文クイズ(※以下、「長文」)がどのように生まれ、どう進化していったかについては記憶がおぼろげになっているはずだ。

長文は、ある日突然誕生したわけではない。
前フリを付けたクイズが流行り出してから、徐々に徐々に問題文が長くなっていったのだ。

そもそも、「長文クイズ」「長文問題」という言葉は、長文が定着してから言われ始めたものだ。それまでは「問題文が長い」などと言われていた。

さて、これは想像だが、今の若いクイズ屋は、長文がどのように生まれたのかについて、最初は前フリ1つの問題が主流になり、その後、前フリを2つ以上付けることが発明され、そして今日の「前フリ、中フリ、後ゲン」になったと思っている人が多いのではなかろうか。
もちろん、これはこれで、違っているとはいえない。
ただ、長文ムーブメントの前夜は、その流れが一筋だけではなかったので、長文には、また別のルーツともいうべき動きがあったのだ。

何が言いたいのかというと、長文の主な起源は、20年ちょっと前に流行った「エピソードを問題文に盛り込むクイズ(※答えは人名)」だったのではないかということだ。

人物のエピソードを「フリ」にすると、短文(※レトロニムですね)とは呼びにくい問題が出来上がる場合が多くなる。
更にフリを追加するようになると、それはもう長文だ。

そして月日は流れ、いつしか、三段構えの「前フリ、中フリ、後ゲン」という概念が生まれた。
長文における三段構えを基本とする考えは、案外、後になって出てきたものなのである。

「小学校のマラソン」は強制参加なのが問題

2月6日にテレビ朝日系で放送された「世界が驚いた日本!スゴ~イデスネ!!視察団 2時間スペシャル」についてのニュース記事がありました。

視察に来た、フィンランドの小学校の校長が、日本での学校行事に驚き、がっかりしたという内容です。

↓ ↓ ↓

小学校のマラソン大会でなぜ順位をつける? 海外の校長が異議唱える

記事によりますと、順位といっても、「1位から数名まで賞状を用意」なんですね。
ビリまで全員順位を付けるわけではないから、そんな驚くことではありませんね。
昔の日本の学校では、中間期末テストの得点の順位を1位から最下位まで実名で貼りだしていたって、聞いたことあります。
それと比べたらましですね。

順位付け云々以前に、学校の行事で問題なのは、全員強制参加なことです。
運動会なんか、嫌で嫌でしょうがないという子供が、潜在的に山ほどいますよ。
運動会や遠足は参加・不参加自由にすればいいのにね。

フィンランドの校長は

運動はそもそも良いことなのに、子どもたちを競わせることで運動が得意じゃない子はビリという烙印が押されてしまう

と言っていますが、競わせる、競わせない以前に、不参加もアリにすべきでしょう。

マラソン大会だと、順位付けしなくても、ビリの子供は自分がビリだと分かりますからね。芸術等の優劣とはわけが違います。

《余談》
クイズは、競技という側面が強く、早くボタンを押した人、たくさん答えた人がエラいみたいになっていますが、趣味の一つと考えれば、競わずに、「ゆる~く、誰かの問いにテキトーに誰かが答えて、わーい」というのもアリかもしれませんね。
優勝者を決めなくてもいいというのも一つの選択肢です。

不毛な「クイズ論」合戦は、仕方ない面もあります。
「競技」である以上、パターン化は必然ですから。

あの日に正解してこそ価値があった。

問題集に載っていないような知識を答えることはクイズの醍醐味の一つだ。

しかし、当初は「クイズ界」では広まっていない単語でも、「ベタ」化することは多々ある。

昔、私はサークルの例会の「ボードクイズ」で、知っていたはずの人物名を、集中力の足りなさからか、うっかり、全然違う人物の名前を書くという痛恨のミスをしてしまった。
その頃はクイズ界では知られていない人名で、私以外にも正解者はおらず、それどころか、「なんだそりゃ?」という雰囲気だった。
せっかくの単独正解のチャンスを逃してしまった。
そして月日は流れ、その人物名と著書のタイトルは“長文クイズ界”では、いつの間にやら、そこそこベタになってしまった。
今現在、その人物名をクイズで答えても、表面上は、どこかの問題集に載っているような標準問題を答えたのと同じことだ。

そう、あの日、あの時、答えてこそ値打ちがあったのだ。

これから先、その答えを正解することと、もう二度とは戻らないあの日に正解することとでは、全然価値が違う。
クイズ界のレベルが上がっていくのなら尚更だ。

とまあ、つらつらと、具体的な単語を伏せて書いてきましたが、上記の「人物名」というのは何かと言いますと、「ロバート・フルガム」です。
『人生に必要な知恵はすべて幼稚園の砂場で学んだ』の著者です。

で、間違えて書いてしまった人名は、大ハズレなので恥ずかしくて明かしたくないのですが、「キングスレイ・ウォード」です。こちらは『ビジネスマンの父より息子への30通の手紙』の著者です。
全然違うにも程がありますね。

「日本の初代首相は誰?」の問いに「夏目漱石」と答えてしまうのに匹敵するくらいのトンチンカンな解答です。
共通点はベストセラーということだけやん。

『ビジネスマンの父より息子への30通の手紙』については最近クイズの場で痛恨の事がありました。それで、「ロバート・フルガム」を答え損ねたあの日の事を思い出したわけです。
長くクイズをやっていると、痛みを伴う思ひ出も多くなります。

フリバの新ルールをあれこれ考えてみた。

のっけからのタイトルからしてそうなんですが、今回の投稿は「クイズ界」用語を説明もなしに使います。

フリバとは、言わずと知れた(※クイズ屋の間では、ですけどね)フリーバッティングの略です。

続きを読む フリバの新ルールをあれこれ考えてみた。

ウィキペディアが最強。どっちみち裏取りするから。

担当の先生によりけりだと思うけど、大学あたりでは、Wikipedia(ウィキペディア)は信憑性がないということで、学生がレポート類を作成する際にウィキペディアを引用したり参考資料として使うことを原則として禁止しているところも少なからずあるようだ。

禁止は、やり過ぎでしょう。

確かにウィキペディアには誤りがある。
もし学生がウィキペディア以外はまったく使用しないというのなら、それはよくないだろう。
でも、レポート等を作成する際は普通、ウィキペディア以外の資料も参考にするのだから、ウィキペディア、あるいはその他の資料に多少の誤りがあっても問題はない(どれが正しいのか分からなくて困ることはあるかもしれないが)。

ディスられたり軽く見られたりすることの多いウィキペディアにくらべると、コトバンクの方は、その道の専門家が執筆しているとかで、信憑性が高い事典(辞書・用語集)との評価が定着しているようだ。

クイズ界でも、ウィキペディアよりコトバンクの方が上級なものとして見られている(ような気がする)。

しかし、クイズ問題の作成にあたって、ウィキペディアとコトバンクのどちらの方が便利だろうか。ネタによりけりなので一概には言えないが、私の経験からすればウィキペディアの方が圧倒的に便利だ。

ウィキペディアには誤りがあるが、クイズ制作に支障をきたすほど間違いだらけということはない。それに、(上記の繰り返しになるが、)他の資料も参考にするのだから、多少の誤りは訂正できるので問題ないのだ。

コトバンクにだって欠点はある。

コトバンクを構成する辞書・事典は、紙媒体のそれをそのまま採用したものが多い。
紙媒体の辞書類は、どうしても文字数・ページ数に制限があるので、各項目の説明文は簡潔なものになってしまう。
短く簡潔にまとまっているというのは、良い面もあるが、クイズを作るにあたっては、参考にしづらいこともままある。
クイズプレイヤー(クイズ屋)は自分がよく知らない事でもクイズ問題として作り上げなければならないのだが、微妙なニュアンスが解りにくい短い説明文からは問題を作りにくいことも多いのだ。

簡潔で短い説明文は、往々にして厳密性には欠けるものだ。必要な内容をスペースの都合だけでバッサリと省略してしまっている。そのような説明文をクイズに採用すれば、正確性にやや欠ける問題文になりかねない。

コトバンクは、せっかくのネット媒体なのに、1つの項目に対する情報量が紙の事典と同程度に少ないというところが残念だ。(とは言っても、1つの項目について複数の事典の説明が表示されるのは便利だけど)

コトバンクの信憑性の方はどうか。

昔の経験から分かるのだが、紙の事典類だって、想像以上に誤りはあるものだ。
コトバンクも例外ではない。例えば、ウルシオールの命名者を誤ったまま掲載している。

ウィキペディア同様、どんな資料も、それ一つのみを鵜呑みにしてはいけないのである。

ウィキペディアの良い点は、問題のある記事には、注意書きが表示されることだ。例えば、大言壮語になっているだとか、特筆性に欠けるだとか、中立的な観点から記述されていないだとか。
で、コトバンクは、当たり前だが、そんな表示は無い。
でも、収録されている辞書・事典の中には、明らかに中立性に欠けるものがある。プロが執筆しているといっても、全幅の信頼を置いてはいけない。

そろそろ結論。

ウィキペディア以外は一切使わないというのは危険だからよくないが、「裏取り」込みなら、ウィキペディアがベースでも一向にかまわない。

5月31日の投稿:ウルシオールの命名者は誰?

高校生クイズ(2015年)を視聴しました。

実を言うとクイズ番組を観るのはそんなに好きではありませんが、高校生クイズは一応観ることにしています。

で、今年も観ました。

そうか、3人組から2人組になってたんだ。(去年のことも忘れてる・・・)

今年のは、もろに『アメリカ横断ウルトラクイズ』へのオマージュでしたね。
まあ、元々「高校生クイズ」はウルトラクイズに出場できない高校生のために誕生した番組ですから、“超”原点回帰といったところでしょうか。
これで、チーム戦ではなく個人戦だったら、ウルトラクイズそのもの、かな?
でも、ウルトラクイズのような熱狂的ファンは今回の高校生クイズからは生まれないように思います。
時代が違うのもそうですが、ウルトラクイズは何週にも渡って放送されていたからこそ、多くのマニアを生んだのではないでしょうか。勿論それだけが理由ではありませんが。

さて、今回の高校生クイズ。よく覚えていないのですが、ナレーションで「知識量ナンバーワンのチームがこの後、ついに決まる!」みたいな内容のことを言っていたのが少し気になりました。

確かに勝ち進んだチームはすごくハイレベルでしたが、敗退組の中にも、同等か、あるいはそれ以上の実力を持つチームがあった可能性は十分あります。

最強のチームが泥んこクイズ(泥というより茶色い水でしたね)1問で即敗退ということもいくらでもあり得ます。

もし決勝に進出していれば、スタジオパートにいるタレントたちを驚嘆せしめるパフォーマンスを見せられたにちがいない強豪チームが、敗者の中にもたくさん存在するのです。

1問や2問で実力を測ってはいけません。

アンモニアの構成元素を間違えた人だって、他のことなら沢山知っているのです。

それはそうと、決勝の「レントゲニウム」の押す早さはすごかったですね。
「原子番号1番」までしか読まれてなかったんでしたっけ?
ネット上のどこかで、八百長だと疑っている書き込みがありましたが、早押し能力に長けた人なら、研ぎ澄ました感覚であれくらいの押しをすることはありますよ。

《余談》
決勝の舞台がニューヨークなのに、放送日が、よりによって9月11日。
キューテンイチイチ(9.11)、アメリカ同時多発テロ事件があった日ですやん。