まずは、ニュース記事。
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「ら抜き」言葉が初の多数派に 文化庁の「国語に関する世論調査」
「ら抜き言葉」がどうたらこうたらという記事を見たとき、いつも思うんだが、動詞の活用について触れとかなきゃいかんでしょ。
五段活用の動詞は、「ら」を抜いたらあかんのやで。
だから、例えば「作る」「走る」「切る」なら、「走れる」「作れる」「切れる」でOK。
ら抜きはダメ、を真に受けて、「作れる」は誤りで「作られる」(※「作ることが出来る」の意で)が正しいと思っちゃう人が出てきたら困りまんがな。
では、五段活用ではない動詞なら、ら抜きはダメなんだろうか。
感覚的には、全部が全部そうとは言えないと思うよ。
いくつか例を挙げてみましょうか。
- この穴からなら出られるぞ。
- この穴からなら出れるぞ。
この例なら、「出られる」の方がしっくりくるかな。でも、「出れる」も、そんなに違和感ありまくりというほどではない。
- テレビに出られるタレントがうらやましい。
- テレビに出れるタレントがうらやましい。
この「出れる」も、日常会話だったら、まあ、普通の言い方かな。
- ユーチューブで見られるよ。
- ユーチューブで見れるよ。
「見れる」はよく聞く言い方だよね。
- ユーチューブで見られるで。
- ユーチューブで見れるで。
これだったら、むしろ、「見れる」の方が自然な感じ。
五段活用じゃない動詞だからって、「ら」を抜いちゃいけないと杓子定規に決めつけるのは、現状からするとよくない気がするね。
そもそも、文法っちゅうもんは、世の人々がしゃべったり書いたりしている言葉を収集して、そこから法則性を見出して、まとめあげたものである。
当たり前だが、文法が先にあったわけじゃない。
使われている言葉があっての文法である。
めいめいが自由に使っている言葉を体系化して「文法」としたわけだから、そりゃあ、法則に当てはまらない例外だってあるでしょうよ。
カモノハシは哺乳類だけど卵を産む。それは、母乳で育つ恒温動物なのに胎生ではなかったというだけのこと。
哺乳類の条件をすべては満たさない哺乳類っぽい動物がいても何ら不思議ではない。
「ら抜き」の是非は、個々の動詞によりけりでいいんじゃないの。
だいたい、言葉は移り変わるものなんだ。
「蹴る(ける)」なんて、昔は、未然形が「蹴ず(けず)」、命令形が「蹴よ(けよ)」だよ。
今の「蹴る」の活用なんて、昔の人からすると完全に誤用だね。時代によって「正しさ」も変わるのである。
「言葉の乱れ」というけれど、言葉は道具だから、使い勝手がよくなるように変化するのは仕方のないこと。国語のお偉方さんの理想通りにはならないのさ。
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